転ぶ
相変わらず元気の良い孫。
ただ、お母さんに甘える傾向が此のところ出始め、だんだんと基礎的人間性の骨格部分が出来つつある。
”三つ子の魂 百までも” その言葉の通り、 人は3歳までの成長により出来上がった人間性を基として、後の人生を生きていくことになるわけです。
3歳までで人生をどう送るかの基礎が創造され、4歳になる前にそれまでの記憶が一度リセットされて新たに生きていく、という事なのですが終わかりでしょうか?
4歳は爆発的な脳の成長をとげる時期で、もし知能を伸ばしたいと考えている親御さんがおられたら、 この4歳に出来る限り頭を鍛え上げる経験をさせるべきだ。
さて、その3歳までに出来上がる基礎的人間性について少しだけ書いてみようかと思う。
幼児は歩くことが不安定で、うちの孫も例外ではなく 実によく転んでいる。
階段で転び 道端の草地に入って転びと、部屋でもベタンという音がすると突っ伏して転んでいることが多い・・・・
まあ、それは別段この年齢では珍しいことではない。
ところが最近、なにかに蹴躓いて顔をフルにぶつけたりすると、堪えて泣くまでは行かないものの、しばらく母親から離れようとしない傾向が出てきた。
適度なベタはいいが、ベッタリだけは駄目なので、そうした状況を見ると息子か僕が引き離す、それで泣いてもだ。
家では、女の子も男の子も 僕が中心で育てた事から、 父親不在家庭という状態で無かったわけですが、そうした家庭環境にて二人とも成長し、
一度は激しい不良行動していた息子も、今では一人の父親として子育て真っ最中。
見ていると、驚くほど子煩悩でありながら、僕と同じ基準で子を叱っている。
当然その家庭も僕と同様に父親中心であり、夫婦はこれまた僕と同じ完全分業制。
当然、平等という言葉等、初めから存在しない。
これは本能の投げかけ そのままに家庭があるわけだが、
いうなれば古来からこの国の大地にあったはずの、極日本的(男尊女卑)子育てと思われる方法をとっている。
*男尊女卑は男がえばることではなく、 礼を通じ、己の恥を知って頭を垂れるのが、本当の意味である。
礼はたがい(夫婦)に対する正しい評価であり、尊ばれるには、男の三要素がまともに出来ていなければならない
1、粗食に耐えてよく働き、 家族に糧(衣食住)をもたらせること
2、女性を甘えさせる人間的大きさを持ち、 外敵から家族を守れること
3、性的な満足を十分に伴侶にもたらせること
これが出来て、初めて女性が自分を卑しく(安心して旦那に任せる(甘える)ことができる)わけだ。
男がえばり散らすのは 単なるエゴでしかなく 極めて愚か(馬鹿)であることに注意。
”それが良いことなのか悪いことなのか?”は 子供が将来世に出て そこで職場の人間たちとどう接してどう評価されているかを見れば
育てたこちらにはよく分かる。
子供は愛情の部分を母親から授かり、社会性を父親から授かる。
生まれて数か月にして 母親の役割と父親の役割を見分け、 おむつが濡れる不快やお腹がすいた等の生命維持と愛情面は母親に、 父親には遊んでと
盛んにメッセージを送る。
故に母親がもたらす愛情の方向が、 その子を男の子に育てる目的であるなら凛とした男となり、
ペットよろしく 溺愛で育てれば 女性的な嫉妬、妬み、をふんだんに兼ね備え、さらに責任感の希薄な男もどきに育つ。
そうならないように父親が適度に抑制するのが本能なのだが、昨今の家庭事情を鑑みると、休みの日以外は父親がいない家庭が多く、
それでどう子供を育てるのだろうかと?
子供が転んだら できるかぎり抱き起さない 自分で立ち上がるまで見守る。
泣いたまま突っ伏していたのなら、泣き終わるまで放っておくか、起こすなら厳しい言葉をかけつつでなければならない。
「あらあらあら」と、溺愛よろしく抱き起し「痛かったね~大丈夫?」、「どこが痛い、痛いよね~」、「可愛そうね、よしよし、痛いといって御覧」等々
挙句の果てには つまずいた原因の石を指して「こいつが悪い!」とたたく真似したり、どこまで愚かのだと思う姿を見かける。
そんなことして男の子を育てれば、 どうなる事か・・・・
たかが転ぶ それだけの事であるが、 転ぶのはそこに石があったからではなく、 石を見落とした、気付かなかった、避けられなかった
この三要素のいずれかに合致したから起きた出来事だ。
1、前をしっかり見て歩くことができなかった
2、注意力を適度に分散して歩けなかった
3、予測性を顧慮していなかった
このどれを欠いても転ぶという現実は起きる。
僕が子供のころに転び、たまに母親に抱き起された際に残る記憶は 叱られたという事実しかない。
転んで一度たりもやさしい言葉をかけてもらったことが無い。
ところが、こんな些細なことが、成長した今となってどれだけ僕に大きな影響を与えているか?という事が痛いほどわかる。
上記の3要素は、これそのまま 人が世の中を生きていくにあてはまるものであり、相手が石ころであるか、社会で遭遇する苦しさという違いだけだ。
転んで泣いても誰も助けてはくれぬ、 故にけして涙を見せずに 自分で立ち上がり、 痛みをこらえ、 反省し。
その経験を学習として生かしつつ未来を歩く。
「気を付けなかったあなたが、いけないんでしょう!」と叱られた母親への憎かった記憶は、 何かと人のせいにしがちな痛みを、自分の引き起こした結果として
忍耐力と 我慢を そして前向きな考え方を僕に備えさせてくれた。
そして今度はどうあるべきか? という 自分に対する努力姿勢も身につけさせてくれた。
転ぶことに対する母親の有り方ひとつで、子供にはこうした素養が育つ。
男の子は生まれながらに男の子なのではなく 男に育てなければ”男”と成り様が無い。
僕は中学のときに 自分の怠慢から それなりの体罰を受けた事がある。
正月明けの宿題提出の際に、 その当時 鬼教師だった先生への反抗心もあって、わざとやっていかなかった。
でクラス全員のいる前、その先生の授業時間中に ビンタをされた、 10回以上であろうか。
*たいした体罰ではない 僕からすると。
理由は至極簡単、僕がその先生の係(国語)を買って出ていたからだ、 皆が恐れてやろうとしなかったのをあえて引き受けたわけで。
その係が 理由を問われた際に 忘れましたではなく ”面倒でやりませんでした”と答えたわけで。
これほどふざけて愚かなことがあるだろうか?
係という小さな責任からするなら、体罰を受けて至極当然。 そうでなければ、ほかの生徒全員に示しがつかないわけです。
この先生には、今でもたいそう感謝しており、なぜならは 正しい体罰を受けた僕が 後にクラスの皆から 「ひどい先生だ!」という言葉交えつつ、
同時に 反抗が出来たヒーローの様にまつられてしまった際、
事の正しさは時として 自分に痛い態様として訪れる事が有り、 自分にとって甘い言葉は毒でしかない事も有るのだと、この一軒を通して教えてくれたからだ。
体罰は、それを受け取る側の持つ人としての能力如何でいくらでも方向が変わると僕は思っている、 痛みをどう解釈するかは
その人の人間性そのもの。
であるなら、 子供が自分で転んで泣いた際に親がどうするか? そんな些細なことも、実はその子にとってのちの人生を送るための大きな学習になっているのだと。
溺愛するのではなく、 成長させるのだという心構えで、小さなことにも臨まねばならないのだといわんや・・・。