そんなもんです
さて、友達が怖いといってた娘。
「友達と深くつきあわずに、表面だけのつきあいにしようかな、傷つくのが嫌だから・・・・」なんて事も、その時は言ってましたが。
私と話をした翌日、そして昨日、ひょうひょうとしています
問題の友達とも美味くやっているようで、とりあえず一段落といったところでしょうか?
親に出来る事は、ヒントを与えるに留まり、それから先は子供自身が自分で解決していくしかありません。
そのためには必要なことは、問題に突き当たっているときには親に甘えさせず、普段から我慢をさせ、親に甘えない姿勢で前を歩いていく姿勢をつけさせねばならない。
本当の意味での「子供の目線に立つ」のとは、親のレベルを子供の高さに落として、あれこれ先回りしてやってやることではなく、親は親としての高い目線のまま、しかしながら、子供が何を考え、何を欲しているのかを自分の経験を元にして”親自身が良く考える事”である。
いま、世の中の教育でありふれている子供の目線にたってというのは私からずれば大きな誤りで、親が自分自身を子供のレベルにまで落としてしまってます。 親を子供のレベルにまで下げてしまっているのですね。
たとえば子供が近所の駄菓子やから万引きしたとします。
そんな子供にどう接するか? 本来なら体罰も含めてかなり厳しく接する必要があります。 悪は悪だからです。
ところが謝った目線に立つと、子供にはそれをした理由があるのだから、それを子供の目線に立って考えなければならないといって、あれこれと先回りしてご機嫌をとったり、親の愛情が不足しているだの、何か理由が有るだのとやりますが、一番肝心な事が抜けてしまってます。
其れは万引きが絶対悪で有るということです。
今のように子供の目線に立つなどとやっていると、このがぼけていってしまい。
子供は理由が有れば万引きして良いのだという考え持つと共に、悪いことをしたのに叱られない、親は自分の事を本当思っていてくれてるのだろうか?
という、不安の心を植え付けることになります。
それが幾度も蓄積されることで、子供は不透明な親の心のまま成長をしてしまいます。 なぜなら万引きをした子供自身はそれが悪いことであるのを百も承知でやっているからです。
万引がわかったら、大きな雷鳴と共にがつんと全身に受ける衝撃が無ければ、
子供はそれが悪い言であると認識することはありません。
子供にとって親は常に高い位置にある存在である必要があり、自分を引き上げてくれる存在でもあり、尊敬されるべき存在でもなければならないはず。
わたしが普段から、この目線にたって子供を育てるという言葉が大嫌いなのはここにあるのです。
前回の書き込みはあえてこの目線にたってというのを使わせてもらいました。
しかし、謝った解釈が存在し続けるうちは、私はこの目線にたった教育とやらを批判し続けるつもりです。
なぜなら、人間は元来自分にだらしのない生き物です。
同じ言葉を聞いても、自分に厳しくなることできちんと理解できるはずが、ほとんどの人間は、自分にとって都合の良い方向にしか解釈しません。
自分によりより方向でしか物事を考えないからです。
ほめて育てる、子供の目線に立って、叱らない教育、その何れもが本来持つ意味を歪め、親の都合良い怠慢を正当化する為の合い言葉として利用されています。
いい加減にこの言葉は無くなってもらいたいです。