欠落する怒りの処理能力ー突き落とし殺人・8人殺傷・荒れる8人の中学生ー原因は全部同じ

またか・・・・と、なんともいえない無力感と空しさを覚える事件が起きてしまいました。
ついこの間は8人殺傷事件、そして今回は岡山の突き落とし殺人です。
マスコミ1社だけの情報を鵜呑みするほど危険なことは有りませんから、出来るだけ多くのメディアから情報を読み取ってみましたが、今回は大人しくて勉強の出来る、大人からすれば理想的に見える子が起こした事件であるということ。
青少年事件が起きるたびに「なぜ?」、「どうして?」と盛んに論じられるわけですが、事件の考察が難しく思えるのは“常識(当事者の心のバランスが普通に取れている)?”を前提として考えているからなのですね。
こうした問題は、脳幹を中心とした人の本能というものを中心にすえて考えない限りは分かるはずもないのです。
現場から教育研究をしてきた私から言えることは、二つの事件に完全共通しているのが、あきらかな怒りの処理能力足もしくは欠落ということです。
これは精神異常でもなんでもなく、育つべきものが育ってなかった、もしくは訓練不足ということでしかありません。
人は生きているかぎり、人的、社会的に何がしかの影響をうけ続けるものです。
当然のように怒りの沸くことは多く、しかしながらそれを“自分の進歩の為の怒り”へ転換し正しい方向へ生かしていく処理が出来ねば生活すら出来なくなります。
ほとんどの人はそうした事を無意識のうちに行いながら毎日を過ごしているわけです。
はじめに起きた8人殺傷の方ですが、ゲーム脳の特有の症状を伴いつつ自ら閉鎖を造り上げているところにきて、沸いてくる怒りを正しい方向へ生かすことが出来ないという処理能力の欠落が相乗、その結果本来なら自分を守るために発動する”防御本能”が他者殺傷として現れただけの事。
次の突き落とし事件ですが、本質は上の事件とまったく同じです。
ただこの青年の場合、大人の都合にあわせた人間を演じることで自分を守り(明るくてやさしくて、大人の思うとおりで成績もそれなりに良い)けして本心を剥き出しにする事が無かったというのが違いですが、演じていること自体がすでに閉鎖状態(限界一杯)なわけです。
なぜなら、演じ続ける事が、彼にとって周りからもたらされる理解出来ない恐怖から自分を守る最良の手段であって、そうした演技をする報酬として周りが自分の思うとおりに評価してくれたり、施しをしてくれることで心を保っていた。
心の処理としては双方向に見えても実は片方向でしかないわけです。
とうぜんに演技によって別人格を構成し続けることは楽なものでは有りませんから、つじつまあわせのために持てる全精力を注ぎながら毎日を過ごします。
高校から大学への進学という夢が崩壊した時点で限界を迎え、今回の事件が起きたわけですが、この青年の心の耐性がもうすこし低かったなら、もっと早いうちに引きこもりという形となって現れていたでしょう。
こうした常時緊張状態の中でかろうじて心を保ちながら生きている者達にとっては、爆発のきっかけは些細なことが多いものですが、そのときは張り詰めた糸が勢いよく切れるように大きな問題をおこします。
だから引きこもりの子等が起こす事件は重篤なものが多いわけです。
多くの人達には理解できないことだと思いますが、真剣に演技し続けていた青年にとっては、「こんなに苦しくてつらい思いをしているのに、なんで分かってくれないんだ?」という思いで心は張り詰めていたであろうことは、私には痛いほど分かります。
本来、思うとおりならないことが世の中では当たり前であり、
「経済的理由で大学を諦めなければならなかった」という事が今回の突き落としの理由の一つ」と語る青年からは、やはり自分の我侭が通らなくなる状況になって湧き上がる怒りを適切に処理できないという、初めに書いた事件の青年と同じ能力的欠落が事件を起こしているわけです。
上記の二つに間違いなく共通しているのは、社会という漠然とした敵?に(単に思うようにならないだけのことですが)自分をはばまれてパニック(糸が切れる)となったことで心が逃げ口を探した挙句に引き起こされた事件であり、そのものは難しくもなんともありません。
漠然としたものが相手だったわけですから、対象はきっかけとなった社会、故に“社会を構成していれば誰でも(なんでも)良い”わけです、もしパニックになるきっかけが親なら、両親に刃物を向けていたでしょう。
彼らのほうからすれば、自分を苦しめるものから当たり前のように自分を守った(彼らにしてみれば正当なわけです)というのが言い分ですから、それが両者に共通して全く反省のかけらが見られない態度としてあらわれているわけで、また理由です。
こうした事件の解決糸口を探ろうとするときは、心の基本的耐性と処理及び本能に絡んだ問題ですから、怒りの処理の成立そのものを考えない限りは、いくら大人の常識を持ち出して「あーだ」「こーだ」と原因をさぐってもわかるはずもない。
もとをただせば単に怒りの処理能力を幼少の頃から適切に育ててこなかった事に起因しているわけですから。
ここで面白い関連をあげてみたいと思います、一見無関係なように見えるかと思いますが、実は福岡の荒れる中学で問題となった中学生8人が、中身において上記の二つと完全に同じであるという事にお気づきでしょうか?
それが最もよく分るのが、問題の生徒がマスコミの前で演じていた姿と、昨年12月に警察や補導員らで作る非行防止のプロジェクト関係者と山へのハイキングへ行った時に見せた素直でいい子な姿(違う報道)に見いだせるわけですが、一見するとまったく相反する姿であることから、普通の人は後者の素直な彼らが本当の姿ではないか?と惑わされてしまいます。
しかし両方とも大人向けのアピール演技でしかなく、この両極端な姿の中に存在する本当の姿というものがきちんと有るわけです。
ちなみにこの中学生達の主張たる言葉?をあげてみるなら、「先生は汚い」、「放し飼いだ」、「言っていることが違う」、「人をみかけで判断する」、という程度のものでしかなく、発する言葉に見合うだけの“自分をかえりみる姿勢“がまったくありません。
そこから何が見えてくるかというなら自分の我侭が通らぬことで湧き上がる怒りを適正に処理する能力がやっぱり欠落しているということ。
つまりは自分達の主張(我侭)は正であり、怒りを自分達に都合良い甘やかしをしてくれない先生達のへ批判に向けているだけということです。
本来なら、「先生は汚いとおもえば、自分のやり方はどうなのだ?」という自身への問いがあり「放し飼いと思うなら、自分で自分を戒めればよく」、「いっている事が違うと思うなら相手の気持ちを察し」、「見かけで判断するというのなら、そういった判断をさせる姿をしている自分に覚悟と責任を持つべき」ということなのですね。
彼らの思考構造は上記の二つの事件とまったく同じであり、まずは自分が思うようになるべきだという考えがあって、やはりそうした自分の我侭に相手が応じてくれないことで発生した怒りを自分で適正処理することができないというのが特徴。
同時にそうした自分をコントロールする力が育っていないことから、逃げの姿勢になり、追い詰められれば本能が防御の為の外部攻撃をさせる。
本件あわせて3件は全て同じことが原因となっているわけです。
ただ、この子達の場合、孤独になることがなかったのと、随所で発散できていたのと、先生という明確な対象がいたことで収まっていたという事、それだけが違うということです。
もしこの生徒一人一人が孤独であったなら、はじめの2件と同じ道を歩んでいたことと思います。
なぜそれが分かるかというなら、報道の中にある商店街やその他の人たちの話、
一人だと大人しくて面倒見がよく“いい子”だったという共通した表現、そこにそのまま本質が有るわけです。
人間のもちうる感情のなかでもっとも処理が難しいもの、それが怒りの感情、故に親はそれを正しい方向へ変換する事の出来る人間へと育てなければなりません。
バランスのとれた豊かな心は、幼い頃に正しく叱ることで備わるという話しは前にしましたが、親は子を育てていく過程で適切に叱り、適切に褒め、適切に考える力を養わねばならないわけですが、「具体的にどうしたらよいのだろうか?」とみんな思うわけですが、一番簡単に実行できる方法は幼少期から家の手伝いをさせること。
「やってくれる?」ではなく、これとこれはあなたの仕事として担当させることです。
食事を作る、部屋のかたずけ、便所掃除、洗濯、風呂掃除、買い物、親と供に出来ることなら何でも良いわけです。
絶対に重要なのはけして“面倒だと親が思わないこと”、でもこれって以外と多くの親に出来ないのですね。
叱らない教育・褒めて育てる教育などという恐怖の教育法を最良と信じ、親の自然な心を捻じ曲げてまで都合よい子を育てようと努力できる親はたくさんいても、
・ 手伝いされるとわずらわしいから
・ 自分がやったほうが簡単だから
・ そんなことより勉強でもしてくれたほうが
ということを平気で思う親がたくさんいるのもまた事実。
しかし子供は、そうした思いをそのまま“自分は面倒な存在なのだ”としっかり学んで成長しますから、それが思春期になれば親を信用せず、携帯電話に異常な執着心を持ちメールのなかに自分の存在場所を求める姿になったりする。
なぜ手伝いが良いかというと、そこに家を中心とした親と子の明確な共通認識たる空間が存在しているからであり、それはけして一方的ではないということ。
それに対して褒めて育てる・叱らない教育は全て親側からの一方的働きかけにほかなりません。
子供自身は感情の赴くまま素直に親へ体当たりしてきます、だからこそ心がそだつわけですが、親は親でそのまま素直な心で受け止めるのが最良。
しかし上記の教育では、自分の都合よい目的の為に本来の感情をねじ伏せて接っしなければならない、それ自体がすでに異常なわけです。
すでに人格の完成された大人とは違い、子供は一次的なものしか受け止められませんから、裏にある親心などいくら愛情を注いでも受け取れるはずも無い事を忘れてはなりません。
ちなみに適応行動認知学で効果が確認されているといって、褒める教育・叱らない教育を薦める理由にしている愚か者がいますが、適応行動認知学そのものはデータを採取する検体の心のバランスが取れていることを前提にしています。
心そのものを造り上げる事は適応行動認知学とはまったく関係ありません、あくまでも出来ている心をもとに統計をとる学問だからです。
故に大人であれば褒める事は効果をもたらします(当然のこと)、しかしそれを人の心そのものの形成に当てはめようとしても、出来ていないところに結果だけもとめるという反射的行動を、親の都合でねじ込むということそのものに他なりません。
困った事に“何々学”と言う聞きなれない言葉を耳にすると、それがあたかも正確なように認識してしまうのはこれも本能のいたずらですが、実際教育に関しては非常に多くこうした認識があるので困ったものです。
まあ、僕も疑問をもつ以前はそうでしたが・・・。
というか、上記のような事も分からずに、適応行動認知学を基にどうたら言っている教育評論家や教育学者が多い事に私は驚いてしまいますが・・・
話は戻りますが、手伝いがうまく出来ない時(それが当たり前です)は親が手本を示しながら、必ず子供と一緒にやる。
子供が放棄や怠慢をして、それが不快で怒りが親の心に沸けば“その感情のまま”叱ればよいわけです。
怒らず冷静になど必要有りません、心そのものを育てているのですから。
*冷静になる必要があるのは、自分の心を中心して他人の心察する能力がつき始める
思春期が近くなってからのことです。
例をあげればトイレ掃除は親がまず何度もやってみせ、次に教えながら一緒にやる、だんだんと任せていく。
そこに有るのは親の姿と心、親との共同作業の意味、清掃の結果と清涼感というすべて直接五感に訴えてくるものばかり。
親が口先で褒めてやらせる事とはまったく異なる、子供が自分自身で感じる進歩に必要な経験の一歩です。
当たり前のようにトイレという場所は家族の共通認識そのものであり、そこに清掃を通して親という存在、自分という存在、言葉と行動、さまざまな感情、そして五感へ染み込んでくる感覚のすべてがある。 膨大な学ぶべきことが手伝いという簡単な事の中に存在しているのです。
親が掃除の結果を見て、上手く出来ないのは叱るべきことではありませんので、何度でも一緒にやって教えればよいわけですが、先も書いたようにそれが明らかに放棄や怠慢であると判断できたときは“当たり前のように叱ること”が肝心。
もし逆に、掃除の結果に親の教えた範囲を越える工夫が見られ、それが親にとってうれしければ素直に褒めればいいわけです。
叱る時は叩くことさえあるでしょうが、「心が傷つく?」 けしてそんな事はありませんよ、幼い頃から親とやっていればです。
傷つく原因は、幼い頃からのこうした親との心のやり取り無しに育ち、いきなり叱られる経験をすると心が処理できずにおきます。
とうぜんに褒めて育てたり・叱らない教育という教育等をしていれば更に激しく更に深い傷として起きます。
今出来ずともやがて出来るようになるように、親の叱りの意味をはじめこそ解らずにいても、成長に合わせてだんだんと理解していくようになる、そうやって心が育つように人間は出来ているわけです。
心も鍛えることで伸びる訳で、子供の能力と力を見くびってはなりません。
子供の受容能力はすでに完成している大人とは比べ物にならないくらい高いものですから。
やがて大きくなり思春期が近づき、反抗期が来れば手伝いを当然にやらなくなってきます、ただそれは至極当然のこと。
このときまでには親という存在と心を読み取る能力が十分にそだっていますから、慌てることなく正しい事は正しいのだと、間違いは間違いなのだと親の姿勢として有ればよいだけで、子供は反抗はすれどもも、それが正しいという事はきちんと受け取れるようになっているのです。
顔は向こうを向いていても、耳は常に親の言葉に向いているということです。
最後に、私が学習のためにお付き合いさせていただいている施設は、引きこもり、非行の子達を分け隔てせずに立ち直らせています。
* 研究は学習の後に私が独自でまとめただけであり、子供たちと接する時はあくまでも学ばせていただいている立場です。
子供達は研究の為の実験体ではありませんから。
もう5年近く研究をしていますが、どの子も単に道を踏み外しているだけのことで、本来は普通の子。
みんな元気になって羽ばたいていきますが、時折上手くいかない子もいます。
私が見ていてその最大の特徴が、叱らない教育・褒めて育てる教育という、いうなれば怒りを正しい方向で処理出来る力を放棄した教育を受けていた子達なのですね。
何しろ怒りというものは自分を破壊する為だけの物として(暴力)しか受け取れない人間に育ってしまったわけですから。