国際学力5位? 偏差値エリートとお受験熱再燃

昨日私の友人との話題になったものですが(その友人がそうした関連書籍を読んだ
ことから話になりました)、内容は勉強の出来る人間を集めさえすれば、会社は安泰なのか?というものです。
この国は世界大戦後にさまざまな産業が発展し、その時代ごとに人気のある職種や企業が替わり続けました。
国鉄(現JR)、日本電信電話公社(現NTT)、富士通、IBM、JAL、SONY等、その時代に一番活気があった業種の中でも特にブランドが高かったところは最優秀?な人材を確保するのが当たり前の事ながら容易で、最高の学生?ばかりを集め「これでわが社は最強で安心できる」と鼻高々に豪語していたわけです。
特にSONYなんかその典型的で代表的な例です。
こうした傾向は別に企業だけ限ったものではなく、官公庁等も基本的には同じで(さすがにここは豪語したりはしませんが)似たようなものであることは疑うべくもありません。
社会全体にはびこる不思議な考え方の一つに
勉強ができる(実際はテストができる)=優秀な人格
というものがあり、当然これは
勉強ができる=人格が優れているとも解されていることを表わしています。
勉強が出来て人格が優れている人間を集めたのだから、わが社は未来永劫つぶれるはずが無い、そうした意識が経営者を豪語させてきた訳ですが、これは本当なのでしょうか?
まがいなりにも自分がこれまで生きてきた人生の中で垣間見てきた企業の衰退は実に冷徹で、
”豪語の後にその会社がどうなってきたのか?”
という現実を振り返ってみるなら、その最優秀?なはずの人材が
“極普通の人たちが努力で作り上げてきた”
会社の経営に取って替わり始める(大体入社後10年から15年後)あたりから必ず業績が下落する一方となり、同様に官公庁等は権限乱用から始まり贈収賄、横領、着服、自分の成績アップの為なら何でもする事が平然と横行するようになる。
そしてここ最近では、教師という仕事の給与が割りと良いことから、子供達がどうのとは全く関係なしに先生になる者達が増え、当然のことながら教員採用試験も成績が全てですから勉強だけができる者達が多数採用されるにつれ、さらには採用=教壇ですから、さまざまな問題を起こしています。
こうした状況を鑑みても、いまだ不思議な事に”何故”を考えられないようで、相変わらず
勉強ができる=すばらしい人格という意識のまま停滞しつづけているわけですが、世の中を動かしている最終的なものは何なのか?を考えてみると、
すべて人と人が顔をつき合わせ、相手の人格を信頼することが最終判断となっている事に気がつくと思います。
人格は勉強で高める事がまったく不可能なもので、幼い頃から友達遊びを初めとして、親や先生から褒められたり叱られたりする経験、すなわち怒り・悲しみ・泣き・笑うということをどれだけ多く繰り返せたか?ということでしか得ることが出来ない物なのですね。
勉強ができる=すばらしい人格と親が考え、そのための貴重な時間を塾や勉強時間
で削り、当然にテストは出来るけれど、その年齢の時しか得られないはずのかけがえ無き経験はどんどんと失われていく・・・
私が尊敬するある方は、勉強だけ出来て人格が最低の人間を“偏差値エリート”という呼び方をしています。
根本は上記に書いた僕の考えと同じです。
さて、このところはゆとり教育の崩壊にからんでお受験熱が再燃しているらしいですが、なぜ子供達の学力が低下しているのか?の理由を勘違いしたマスコミが騒いでいますが、
最低限度の内容しか無いものをさらに削り、選択性を導入し、いやな事はしなくてもいいという認識を幼い頃より植え付けたあげく、教壇は支配だと言いだし果てには“教師と生徒は御友達”。
これでは、そうなっても当然(この理由を明確に説明できますが、膨大な量になるので止めておきます)ですが、もっとも深刻なのは自分の頭で考え判断する能力の欠落。
人間の能力はすべて自分に降りかかるいやな事、つらい事を何とかしようと工夫したりしてあえぐ事で最高の力を発揮するように創られており、
その基本は幼い頃に親から叱られることに始まって、やがて友達との間で様々な“べからず”をどうやって乗り越えるか等と発展し、怖い思いをしたり、喧嘩したり、いじめたりいじめられたりを繰り返してほかの人格形成要件と溶け合いつつ思考力となっていく。
しかし今現在、貴重な友達との遊びの時間を散々削り、外遊びは心配だからとテレビゲームを相手にさせていたのでは考える力など付くはずも無く、
特にテレビゲームのもつ最大の問題点はゲーム会社が造り出す非日常的な刺激的ストーリーを、まだ成長期にある子供達に提供する事で、
ゲームの流れに沿ってやってさえいれば“自分を楽しませてくれる”、それが遊びなのだとして育てば、自分から頭をつかって楽しさを創り出して行こうなんて思わなくなるわけです。
こうして積み重ねられた幼い頃からの経験はゲームという範囲だけに留まらず、後の人生全てに影響を与えていきます。
一番簡単で身近な例ですが、学ぶという事に対する態度もその一つで、学ぶ事が“楽しい”と思うのは、楽しくなるために誰かが施してくれるというものでは無いはずが、そこから前に自分を進める術を学んできていない子達が増えています。
簡単に言うなら勉強がいやなのは誰でも同じ、昔はそれぞれが工夫をこらして自分なりの楽しさを見つけ、方法を創造していく事でさらに楽しくなって行き、それがまた考える力を成長させていたのです。
すべてが、誰かがくれる物だという思考ではそれをなすすべなど無く、
勉強は出来るけれど、創造性と創意工夫、辛さを超えてこなす力や、他人と深く思考を混ぜ合わせながら全体を前進させる力など生まれてくるはずはないのだと、
親たちは分からねばならないわけですが・・・