うねうねうね
と、だんだん伸びる線路 (--;) ってか!? (^0^)ダハハハハ!

毎日、プラレールで遊んでいる孫ですけど、月曜日はこんな感じだった。
日曜日はもっと短く、 その前の土曜日は何も無しの状態から、孫が構築し始めた。

この日記を、もし継続して読んでくれている方が居たら、先週の土曜日に”僕が孫に拳骨を食らわせた話”があったの、を覚えておられるかもしれません。
なんで、拳骨なのか?というと、 掃除の時の事。
オモチャを出して遊ぶのは一向にかまいませんが、基本的に一日が終われば、出した物はおもちゃ箱に仕舞わねばならないわけです。
前に紹介した、”幸せになるための基本的な物の考え方”をしつける必要があるからです。
ただ、このレール構築に関しては、孫の2歳5ヶ月という年を考えると、 様々な部品を自分の好みの並べ方や構成にして遊ぶには、それなりの時間が必要。
当然にそれなりの時間を消費しているわけです。
なので、これに関しては片付けは週に一度。
線路は、幼いながらも色々と工夫していて、 とはいえども、週一で家全体を掃除して、掃除機がけをするのは、家の昔からの慣例。
その際には、こうしたレールも一度全部オモチャ箱に収納しなければならない。
特定というのは無いんです。
で、目の前で壊されて、次々と箱に入れられて行くのを見た孫が、怒りだしてしまった。
まあ、それは良いとしても、 片付けた物をすぐさま出して、並べようとする。
「掃除が終わるまでまってね!」といっても、感情が高ぶっている孫の耳には全く入らない。
で、拳骨の原因ですが、思うように行かないことで、ついに癇癪起こした孫が、大切にしているはずのプラレールの電車を、ぶん投げ始めた。
初めは、僕も口で諭し、それを拾って戻していたけど、さらに次々と投げ始めたので、ついには拳骨投下。
大泣きした声を聞いて、家内と娘が飛んできて、「なんで拳骨なの!お尻を叩いて!」と言いますが、 軽くコツンとやって死んだ子供の話など聞きません。
*僕は体罰肯定派なので、必要とあれば平然とやります。
僕自身、幼い頃に親父に叱られた記憶は、常に拳骨と供にありますし。(^^;)
で、しばらく娘と家内の連合軍相手に押し問答をして、向こうは最後に孫を連れて行ってしまった。
でも、僕は一切かまわずに続けて掃除機がけ。
その他、トイレ掃除等々、全部が終わると、片付けた道路マットを元のように広げる。
それと同時に戻ってきた孫は、もう泣き止んでいて、すぐにおもちゃ箱からプラレールを出して、再びレールを敷きはじめた。
自分が投げて、連結の外れてしまった電車も、僕のところに持ってきて、「繋げて」と言う。
その時の、孫の顔は満面の笑みで、こうした事で娘や家内の処に行くという事は、殆ど無い。
今から数ヶ月前に、自分でプラレールの電池交換が出来るようになった孫は、僕の処に来て、電池交換のやり方をじっと見ていた。
その交換で、家内や娘のところに行って見ていたという事は、やはりあまりないんです。
不思議なことだけど、それが子供というものなんですね。
新しく構築し始めた路線は、 まずは一番好きな物を置いて、そしてそれに、やはり好きな物を少しずつ連結していくという方法で、出来た線路に列車を載せて少し遊ぶと、次のレールを出してきて、又繋げていく。
電池を入れたプラレールが、自動で動いてくるくると回るのを楽しむという時期はとうに過ぎ、 自分でプラレールで構築した線路と、それが作り出す、風景の中に自分の手で列車を動かしながら、しかもそれを寝転びながら様々な角度で見て楽しんでいる。
それゆえ、一時のような直線レールを組むことが少なくなり、 カーブで構築されてた線路をもっぱら好むようになってきた。
上記に書いた色々に関しては、やはり様々な考え方があるかと、僕は思うけど、
”せっかく造ったのだから、そのままにして置いてあげる”という方法も、一見優しい親心のように思えるだろう。
しかし、それを壊してしまい、又新たに造り直させる事を繰り返させる方法で、想像と知能を伸ばすという違う面の優しさというのも、そこにある。
その造り直すきっかけが、たかが???掃除であっても、何らおかしくもなんともないんです。
なぜなら、人生は常に何かを構築することの繰り返しであり、しかしながらその造り上げた物は、上手く行かなかったり、自分の意思とは全く無関係に壊れたり、また誰かに壊されたりという事は、際限なくある。
それは本当に小さな事からはじまり、”人生の終焉を自分の手で迎えたくなるほどの事”まである。
その際に、単に泣いてふて腐れていれば、それでその人間の成長は停止する。
逆に、壊れた物(現状)を前にしても、それに負けずにさらに新しい物を造り出そうとする、強い意思と気持ちを持つ者は、それを繰り返していく事で大きく成長する。
その礎は、こうした幼き日の些細な日常から身につけていくわけです。
”三つ子の魂、百までも”と言うが、 優しさは成長をもたらさない!、そうその時に僕自身が判断すれば、爺としては平然とやるわけです。
最後に、せっかく孫が造り上げた物を、意味も理由も無しに壊すのは、ただの犯罪なのだと、それは単なる虐待でしか無いのだと。