1才7ヶ月 人の子って凄い
マジで本当にそう思います。
他の動物とは桁違いに能力が高いんですね、人間というのは。
僕には、息子と娘が一人づつ居て、その2人を育て終えて今に至っている。
息子の方は既に中学生の息子がいて、僕にとっての孫。
娘の方は婿殿と一緒に家で同居している。
そんな家に、昨年の5月末にやって来たのが、孫。
あんなに小さくてね、掌に入る程の大きさだったのが、今ではずっしり。
*肥満では無いので、誤解無きように(笑)
最近、孫の行動を見ていて、”1才半てこんなに色々出来たっけ?”と思うことが多々。
普段の生活で、親の言葉を殆ど理解していて、もっとも、まだ聞いたことが無い言葉は解らないのは当然としても、それ以外での、いわゆる生活していく上での支障はほぼ無い。
本人が、こちらに返す言葉の数は、もうどの位有るのか判らないほどで、自分の意思常時はともかくも、様々な擬音等も使いこなせる。
とはいえど、何言ってんだ?というのもかなり多いが(笑)
擬音で簡単のは、踏切のカンカン音や、電車レールの継ぎ目の音、車の走行音等もそうだし、動物の鳴き声も、聞いた物はすぐに表現できる。
見ていると、目の前にある事(映像や音楽、動き等々)をそのまま五感で受けとめて脳にインプットしているのがよくわかるのだけど、その時は大抵決まったポーズ。
右手の人指し指と中指を口にくわえ、左で、横の髪の毛を引っ張る。
これがインプットの状態で、そのまま微動だにせずに物事をジッと見て、そこにある全ての情報をビデオレコーダーの様に脳へしまい込んでいる。
なんでもかんでも、舐めてしまう事で物を確かめていた時期はとうに過ぎ去り、今は物を舐めることが全く無くなり、その代わりに上記のポーズで色々と理解している。
舐めるという感覚記憶から、 視覚などの五感情報記憶に切り替わっているわけで、しかしながらまだ完全に感覚記憶からの切替が終わっている訳ではないので、ただいま切替中という感じで、
手で持てる物は、舐めて情報を受けられるが、 映像や音楽等の情報は舐められる物ではなく、指を口に入れることで、代用をしているんですね。
このポーズが終わると、見ていた物はすぐに頭の中で反復されるらしくて、それはその後の孫の行動から分かるわけでして、こうした物って人間だけに備わる、他の動物には無い高度な能力なんだろうと思う。
まだ月齢も浅いので、危険なことをやろうとしたりとか、親にとって避けてもらいたい事が有ると、ハッキリ言葉で言うだけで、おおよその事を理解する。
”自分のしたい”という思いと行動を、制限してくる親の強い言葉は、1才6ヶ月の子供に葛藤を起こさせ、どう判断するか?をみている僕にとっては非常に面白い。
自分の中でそれなりの理解が出来ると、それ以上はやらないが、理解がおぼつかない場合はジッとこちらの表情をみている。
いわゆる親の顔色をみているわけだが、 これが将来他人の心の動きを読むための重要な訓練でもある。
どうしてもやりたい場合は、親の言葉を効かないわけで、 例えば触ると危ない物は、その時点で強制的に引き離し、それで孫が泣こうが何だろうが、断行する。
当然、納得できない孫は、少し立つとまた試みを開始するわけだが、ここで再び引き離す。
叱ることも無く、坦々とこれを繰り返す訳だ、こうした行動に叱るというのは何ら意味をなさない物だからだ。
そんな繰り返しのなかで、比較的身近で危ない物としては加熱された物があるが、
家では少し触ったくらいで重症にならない程度の熱い物に「あちちだよ!」と言って意図的に触らせる。
熱したフライパンを触るわけでは無いので、火傷にはならないが、触った瞬間驚いて指を引っ込める。
そうして熱い=危険を理解させるわけだけど、 一度ファンヒーターの吹き出し口に興味を持って、焼けたグリルに手を触れてしまった事がある。
それは、その「あちちだよ!」の訓練?を初めて程なくしての事だけど、その前から幼児ガードを取り外されたファンヒーターを触ろうとしていたことが何度もあり。
その度に「あちちになるよ!」と声をかけていた。
でだ、案の定、まだ焼けた物の本当の恐さを知らない孫はグリルに触れてしまった。
あちち訓練していたので、そっと触ったわけだが、当然火が付いたように泣き出した。
すぐ側にいた僕が気がついたわけだが、 僕の声と孫の泣き声にすっ飛んできた娘は、
事の次第を聞いても平然としていて、 「あちちの意味がわかった?」と泣き止んだ孫に語りかけるようにして諭している。
幼いながらも「うん」と言って頭を下げる孫の姿は、やはり人間であり、動物ではない。
頭をゴチンするよ! 転ぶよ! 挟むよ! 痛い思いするよ!こうした事は、それから子供を避けさせていては、”なんで?”なのかを理解しないまま成長することになる。
痛い思いをするから、辛い思いをするから、身にしみてそれが経験となり学習となる。
これは又、精神力の基礎的なトレーニングでもある。
家のリビングを走って転倒して、頭をしこたまぶつけても家では、家では余程のことが無い限りは皆が黙っていていて、決して大げさにはしない。
自分でしでかした事に対して、自分の中で処理をするのが当然で、親が現われて意味不明に抱きしめたりすることは、他人依存の姿勢を子供の中に創りだすことに他ならない。
自分で経験して、自分で処理させる事がなにより重要だからだ。
親は子を守ろうとする、それは当然であり本能だが、 進歩をさせない保護は、子供を甘やかすことに他ならず、進歩のためには痛みという物が必ず必要なわけだ。
僕は体罰肯定派で、 必要となれば平然と体罰をする。
こうして息子も娘も育ってきた。
体罰をしたから、他の子に暴力を振るう、いわゆる暴力の連鎖など一度たりともなく、2人とも協調性の高い人間に成長してくれている。
*協調性は正しく他人を理解出来る事で、学校の先生が平然と言葉にする協調性は単なる従属性に過ぎない。
1人は親方日の丸の仕事、もう一人は教員。
特別で有る必要など全く無く、普通である事が一番良く、しかしながらこの普通であるという事が如何に大変かというのも事実である。
そんな家庭環境の中で、孫は毎日成長していて、果たしてこの子はどんな子になるのかな?と思うわけです。
By 翔